だいじょうぶだ50代~50代のing

50代の世界観を書きます

【10】都会に出て挫折

都会に出たものの、過干渉な親から離れたいのが80%だったため、どんな仕事がしたいか深く考えていなくて、転職には苦しみました。今までの職歴を活かした仕事、はというと土日が休みではなかったため、事務職に就きたくなっていました。一見芯が通っていそうな性格に思えるかも知れませんが、優柔不断、いや、よくいうと柔軟な性格です。宝飾店で売り上げを上げていたけれど、欲しくもないものを買わせて申し訳ない、という罪悪感が芽生えていたのです。その後1年就活し、親から援助を受け始めた頃、あせって就職することができました。事務職に就けて、トータル12年ぐらい勤められました。けれど、事務職といえど自分の会社の商品が売れて給料になるので私はいつも「どうしたらもっと売れるか?」そればかり考えていました。スーパーの売り場では「こんな商品があったら売れるのに。買うのに」ずっとずーっとそんなことばっかり考える頭。

『特技を活かしたいよな』とモンモンとしていた時、親が半年の余命であっという間に亡くなってしまったのです。いつかは親は亡くなるとは思っていたけれど、あっけなく亡くなった親。まだ30半ばなのに親がいなくなるなんて思ってもみなかったの。親を亡くして初めて「自分のこれからの人生」について真剣に考え始めました。

そして「私は事務職は好きじゃない!」と、会社を辞めて失業保険をもらいながら資格をとりに行ったり、マーケティングの勉強をしたり、と勉強を始めました。目は血走り、積極的に手を挙げ、真剣、必死でした。親のお金で通っていた人たちがいましたが、その人たちとは違っていたと思います。

講座が終わる頃、広告代理店を受けたのですが、撃沈。落ちた理由は「40近い年齢の新人をとるぐらいなら、安い給料の若い新人をつかう。あきらめなさい」でした。「なにをー!?年は好きでとるものじゃない!仕事ができるかどうかだろ?なんだ?その理由」激怒した怒りをエネルギーに変えて、発想を転換する私。

「だったら私を必要としてくれる会社を受ければいいんじゃない?」と、小さい頃から好きだったメーカーを受けることに決めました。と、受けたいその会社は求人募集をしていません。なので、アポをとるとそこでもう断られてしまうため、突然伺うという作戦をとり履歴書を持って、突撃。結果、2週間後に採用の電話が来、私は理想の仕事に就けたました。早送りで書いていますが、この間山あり谷ありで、絶望に泣く夜もありました。

このメーカーで働かせてもらい『どうしたら売れるか?どうしたら見切りにさせないか?』更に、実力をつけることができました。もちろん失敗もあります。失敗はしましたが、反省する性格なので同じ過ちはしません。売れない商品づくりは会社に損害を与えます。ロスは大嫌い。なのでおおざっぱな性格が仕事の時は慎重、に変わりました。

その会社は、みんな良い人なんだけど1人1人が社長のようで、協調性がなく、バラッバラでした。

まず、新商品をつくるのに皆が同じ方向を向くようまとめることにしました。どうすればいいんだろう?あ、そうだ。始めに手をつけたのは清掃です。社内の汚いところから毎日掃除し、徐々に環境を整えたのです。誰も手を貸さなくても文句も言わず、社内をピカピカに磨いていきました。半年もすると、強いことを言っても、誰も逆らわないし、文句も言わなくなりました。これは『あの人毎日掃除してくれているからな』と思わせるよう仕向けた恩着せです。更に作戦はまだつづく。営業から受ける仕事を、締め切り前に提出するのです。これにより20名ほどいた営業から『あの人に頼むと早い。正確』と信頼関係と信用を築くことができました。つづく