だいじょうぶだ50代~50代のing

50代の世界観を書きます

【13】助言と指摘

この間会社で仕事メールをしたら「ご指摘ありがとうございます」と返信が来ました。

 

私はこの「ご指摘」「ご忠告」という言葉は「ありがとうございます」にはつながらないんじゃないか?というぐらい嫌いです。

 

私が返信する場合は「返信ありがとうございます」「助言ありがとうございます」と、つなげる。

 

指摘も忠告も、攻撃と受け取っている言葉であり、迷惑に感じているから書かさるんじゃないかと思う。

 

うちは父がプラス思考で、母は自分でいう程マイナス思考の心配性でした。

 

私はそんな両親のもと、両親の良いところを見習いました。まぁ、でも人間なのでどうしてもマイナスに考える日もありますが。

 

母の心配性はもったいない時間を過ごしているとずーっと思っていて「そんななるかならないかわからない心配するの時間がもったいないしょ」と、よく助言をしていたものです。

 

母の心配性といったらこんな感じです。

父が飲みに行きました。田舎なので歩いて10分もかからない居酒屋です。帰ってくるまで眠れないんだって。それを相手にいう。相手は気にして出かけられなくなる。こんな感じです。相手の自由も奪うわ!いつもこう思っていました。

 

20代前半に実家に帰った私に関してもそうです。20代前半といったら飲みや遊びに出かけたいのに翌朝に「帰ってくるまで寝れなかった」と言われると、出かけたくなくなったもんです。

 

だから一人暮らししたくなったんだよな~

自立するにはいいことだったと今では思います。

 

先おととし、訳あって兄弟と暮らすことになりましたが、親元から出たことのない兄弟は自立していないと気づきました。

 

ペットのために冬はストーブを焚いて寝ていたんだけど、灯油代が高いとぼやくのです。

 

月一万程度。聞くと同居していた親がずっと払っていて自分の給料から出していなかったという。

 

一緒に暮らしていて、光熱費を払わせないうちの親もどうかと思うけど。

 

私は両親がこの数年でこの世からいなくなったことで、より自立心が強くなったと思う。

人と暮らすのが苦手な私なので、親がいなくなったことは寂しいというより、解放された気持ちが強いのでした。つづく

 

 

 

【11】友達は移り変わるもの

一生友達でいられる人もいるかも知れないけれど、私の場合、年々友達は減り(減らし)、新しい友達をつくらなくなりました。友達はつくるものではない。そう。私は田舎育ちだったので、友達はつくるものと考えていたように感じます。

昔は縁が切れるのが怖くて友達に長電話して、相手の時間を奪っていました。当時相手の時間を奪うなんて感覚はありませんでしたが、メールが発達した今、メールさえもしなくなりました。噂話、世間話に興味がなくなったのありますが、SNSの存在が「友達」というくくりを変えた気がします。

インスタグラムで悩みやペットの話をすれば別に返事はなくとも、誰ともしゃべらなくともすっきりします。インスタグラムの存在が私の生活形態を変えたといっても過言ではありません。いや、こんな考えの人間は私だけじゃないはず。だから個々主義化が進んだのではないでしょうか?私は今の時代が合っている。今の時代に生まれて良かったと思っています。

他に生活スタイルを変えたものがあります。それは、買い物。洋服、靴、バッグ、ペットのエサ、毎日の食べ物以外全てネットで買っています。ポイントが貯まるし、マイルも年に二区間は貯まります。いい時代だ。こんなに歳をとっても、新しいものを受け入れる気持ちが強いから毎日楽しくいられるのだと思います。気持ちの切り替えがうまい性格にも感謝しています。そう考えると、よくいう「人生で無駄なことはない」中学のいじめも、あの日もあの時も必要だったのかな、と思えます。恨んだりする時間が無駄。つづく

【10】都会に出て挫折

都会に出たものの、過干渉な親から離れたいのが80%だったため、どんな仕事がしたいか深く考えていなくて、転職には苦しみました。今までの職歴を活かした仕事、はというと土日が休みではなかったため、事務職に就きたくなっていました。一見芯が通っていそうな性格に思えるかも知れませんが、優柔不断、いや、よくいうと柔軟な性格です。宝飾店で売り上げを上げていたけれど、欲しくもないものを買わせて申し訳ない、という罪悪感が芽生えていたのです。その後1年就活し、親から援助を受け始めた頃、あせって就職することができました。事務職に就けて、トータル12年ぐらい勤められました。けれど、事務職といえど自分の会社の商品が売れて給料になるので私はいつも「どうしたらもっと売れるか?」そればかり考えていました。スーパーの売り場では「こんな商品があったら売れるのに。買うのに」ずっとずーっとそんなことばっかり考える頭。

『特技を活かしたいよな』とモンモンとしていた時、親が半年の余命であっという間に亡くなってしまったのです。いつかは親は亡くなるとは思っていたけれど、あっけなく亡くなった親。まだ30半ばなのに親がいなくなるなんて思ってもみなかったの。親を亡くして初めて「自分のこれからの人生」について真剣に考え始めました。

そして「私は事務職は好きじゃない!」と、会社を辞めて失業保険をもらいながら資格をとりに行ったり、マーケティングの勉強をしたり、と勉強を始めました。目は血走り、積極的に手を挙げ、真剣、必死でした。親のお金で通っていた人たちがいましたが、その人たちとは違っていたと思います。

講座が終わる頃、広告代理店を受けたのですが、撃沈。落ちた理由は「40近い年齢の新人をとるぐらいなら、安い給料の若い新人をつかう。あきらめなさい」でした。「なにをー!?年は好きでとるものじゃない!仕事ができるかどうかだろ?なんだ?その理由」激怒した怒りをエネルギーに変えて、発想を転換する私。

「だったら私を必要としてくれる会社を受ければいいんじゃない?」と、小さい頃から好きだったメーカーを受けることに決めました。と、受けたいその会社は求人募集をしていません。なので、アポをとるとそこでもう断られてしまうため、突然伺うという作戦をとり履歴書を持って、突撃。結果、2週間後に採用の電話が来、私は理想の仕事に就けたました。早送りで書いていますが、この間山あり谷ありで、絶望に泣く夜もありました。

このメーカーで働かせてもらい『どうしたら売れるか?どうしたら見切りにさせないか?』更に、実力をつけることができました。もちろん失敗もあります。失敗はしましたが、反省する性格なので同じ過ちはしません。売れない商品づくりは会社に損害を与えます。ロスは大嫌い。なのでおおざっぱな性格が仕事の時は慎重、に変わりました。

その会社は、みんな良い人なんだけど1人1人が社長のようで、協調性がなく、バラッバラでした。

まず、新商品をつくるのに皆が同じ方向を向くようまとめることにしました。どうすればいいんだろう?あ、そうだ。始めに手をつけたのは清掃です。社内の汚いところから毎日掃除し、徐々に環境を整えたのです。誰も手を貸さなくても文句も言わず、社内をピカピカに磨いていきました。半年もすると、強いことを言っても、誰も逆らわないし、文句も言わなくなりました。これは『あの人毎日掃除してくれているからな』と思わせるよう仕向けた恩着せです。更に作戦はまだつづく。営業から受ける仕事を、締め切り前に提出するのです。これにより20名ほどいた営業から『あの人に頼むと早い。正確』と信頼関係と信用を築くことができました。つづく

 

【9】宝飾店員へ

その店には私を含め、店員が7名いました。経営陣3名、雇われ店員は4名。その中に長年勤めてた先輩がいました。当然顧客が何人もついている。先輩についている顧客をとったところで、店の売り上げは伸ばせません。新規のお客様を自分につけ、定期的に買ってくださる顧客にしなければ、そう考えた私は先輩とは違う売り方で新規の方を顧客にすることに努めました。

売れない商品がなぜ売れないのか?理由を考え、商品自ら宣伝させるのです。例えば目覚まし時計なら、音を鳴らしてもいいですよと言ったり、POPを書いたりするのではなく「ダンダン音が大きくなるダンダントーン。100%目が覚めます」「心臓の弱いあなたに。この目覚ましがそっとあなたを起こしてくれます」など、キャッチコピーを書いたPOPをつけました。するとどうでしょう。売れ残って黄ばみがかった目覚ましまでもが売れたのです。今から30年前の話です。

常に関連販売も心がけており、売り上げを倍にするために、こんな売り方をしていました。彼女への誕生プレゼントを買いに来た男性が彼女の時計を選んでいると、、、自分の時計も買うよう誘導する。一本時計を買うつもりだったのに、いつのまにかペアで買っている。つまり売り上げは、倍。彼女に宝飾を買いに来たお客様には、自分(男性)のネックレスや指輪も買わせる。それこそ男性にそっと触ったり、私が自分の腕に時計を置き、彼女に見立ててうっとりするなど小芝居も打ちました。

メガネも売っていたのですが、自分がかけているメガネをお客様にもすすめて何本も売っていました。毎日仕事が楽しくて仕方なかった。私がお客様にプレゼンを仕掛けると面白いほど商品が売れるので、私が仕入れたものではない売れ残った商品をどう売るかを、まるでゲームのように考えていました。でも辞めた。都会に出て、1人で暮らしたかった。もっと刺激が欲しかったからです。つづく

【8】はじめは事務職でしたが

辞めて実家に帰り、母のすすめで雑貨屋の店員になりました。

ぼーっとしている娘をゆるせない母。母が求人を見つけては娘に受けろという。そりゃそうです。私でもそう思う。対して父は子に甘く、文句はひとつも言いませんでした。私でもそう思う割りにその頃の私は東京帰りの脱け殻。なまけものそのものでした。

ところが受かった雑貨屋はみやげも併設していて、時はバブル。全国から観光客が束になって訪れ、私は開眼したのです。それは、ディスプレイの才能でした。ぬいぐるみにお菓子を持たせてPOPをつけて、ぬいぐるみに宣伝させる。ゴリラのぬいぐるみは天井から吊り下げるなど、商品一つひとつに自己主張させるのです。平均単価300円ほどの雑貨屋で1日に100万円売り上げた日もありました。朝7時に出勤して、夜は10時に帰る生活が1年ほど続いたある日今度は母が、宝飾店員の仕事を探して来ました。つづく

【7】とにかくあっという間に過ぎた人生

20歳までは毎日が長かった。特に学生時代は勉強が大嫌いだったので、毎日が苦痛で長かった。

「私は仕事に向いている」と気づいたのは高校半ば。私は進学するのをやめた。

勉強するのがバカバカしくなったのだ。就職に強い高校ではなかったため、あまり思う仕事がなかった。初めて勤めた会社は合わずすぐに辞めた。東京で勤め、母から逃げたかったはずなのにホームシックになり逃げ帰ったと言っても過言じゃない。

一度家を出られたのに、また過干渉でマイナス思考な母と住むはめになってしまった。マイナス思考はマイナス思考を呼ぶ。私までマイナス思考になりそうな苦痛な日々が続いた。

世間的に適齢期と呼ばれる年齢になった私は毎日「結婚しなさい」「結婚しなさい。恥ずかしいから」と言われるようになった。結婚して欲しい、孫が見たいのはまだわかるけど、恥ずかしいはないんじゃない?この母とはいられないな、と改めて思い、地元で貯めたお金を元に都会へ出た。だが待っていたのは一年間の失業。辛かったー

つづく